(1)早めに発表された経済財政白書

 7月23日、内閣府より『経済財政白書 2019年版』(年次経済財政報告 令和元年度)が発表された。毎年7月下旬から8月初旬に発表される。今年は参議院選挙の終了を待つかのように、選挙の熱が冷める間もなく早めに発表された。早めに発表されることは、筆者のようなユーザーにとってはありがたい。今年は、期せずして春学期の期末テストに織り込むことができた。

 というのも、最近、白書や重要政府文書の発表が遅れることが多いからである。とくに国会の会期中には、与党にとって都合の悪い内容を含む白書や政府文書はたいてい発表が遅れる。白書の公表には閣議決定が必要なので、内閣が多忙であるから発表できない、といった説明がなされるが、そんなはずはない。閣議で、白書の内容のことなど討議しているはずがない。結局、都合の悪い文書を、国会終了や選挙まで後送りにしているに過ぎない。「2000万円の貯蓄が必要」との金融庁WGの報告で話題になった年金会計の基盤をなす、公的年金の財政検証の公表も遅れている。この財政検証は、公的年金制度の健全性を5年に一度チェックする極めて重要なものであり、例年は通常国会の会期中の6月には発表される。しかし、今年は発表が遅れ、通常国会は終了し、参議院選挙も終わってしまった。これは明らかに政権与党が、年金にかかわる議論が高まるのを避けているからとしか考えられない。

これに対し、今回の経済財政白書はかなり早く発表された。前述のとおり、これはありがたいことではあるが、同時に今回の白書が、政権与党にとって都合のよい内容が織り込まれていることを示唆している。

(2)労働市場の多様化をメインテーマとするが・・・

今回の経済財政白書のメインテーマは、「労働市場の多様化」である。第2章は、「労働市場の多様化とその課題」とのタイトルを掲げ、第1節;多様な人材は労働参加する背景、第2節;働き方の多様化に向けて求められる変革、第3節;労働市場の多様化が経済に与える影響、といった3つの節を展開している。

この章に対する評価は、おおむね良好である。これまで労働市場の硬直性や日本的雇用慣行について、(労働白書ではなく)経済白書で大々的に取り上げた例は少ない。政府が労働市場改革と生産性向上を現在、最も重要な政策と考えていることが良く分かる。「生産性の向上をうたいながら、産業の新陳代謝や労働力の流動化にかかわる規制緩和には踏み込んでいない」「具体的な方策が示されていない」といった批判もある。これは正論ではあるが、政府の最重要白書であるから具体的な痛みのある改革について触れないのは致し方ないところであろう。

むしろ問題なのは、労働市場におけるもっとも重要な視点である、①本当に全国的にあらゆる職種で人手不足なのか、②実質賃金が伸びていないのはなぜか、といった点に触れていないことである。

①の「人手不足」については、筆者は疑っている。確かに失業率や有効求人倍率の数字は改善しているが、それが「職に就きたい人が本当に難なく職を得ている」ことを意味しているとはどうも思えない。有効求人倍率の分子の求人数は、果たして本当の求人なのか。ハローワークに登録する求人数は、本当に企業が雇用したい人数なのか。企業は採用する気もない人数を「求人」しているのではないか。こうした点をチェックしない限り、有効求人倍率が過去最高、すべての都道府県で1倍を超える、といったことはほとんど無意味である。筆者は、ゼミの卒業生などの声を聴く限り、働きたいけれど働けない、心底正規社員になりたいが仕方なく非正規に甘んじている若者は数えきれないほどいる。とても、あらゆる産業・職種を通じて人手不足である、というのはどうも信じられない。

②の実質賃金については、これまでもさんざん国会で議論されている。野党は、実質賃金が伸びていないことを指摘するが、与党は名目賃金が少し改善したこと、総雇用者報酬が増加したことだけを誇り、野党の指摘を無視している。しかし、真に重要なのは名目賃金上昇率-物価上昇率の実質賃金であることは明らかである。政府が大企業に圧力をかけて少々名目賃金を上げても、消費税増税を含む物価上昇率が上がっている為、実質賃金は全く伸びていない。図1は、過去10年強の実質経済成長率、名目賃金・実質賃金の上昇率を描いたものである。安倍政権が始まった2013年1月以降、名目賃金上昇率は少し高まったが、物価上昇率を引いた実質賃金は大きく下落し、ゼロ近辺をさまよっている。安倍首相は、2009年8月から2012年12月の民主党政権下の経済パフォーマンスをしばしば揶揄し、「悪夢のような・・・」と表現することが多いが、実質賃金についてみると民主党政権下の3年半では累計1%上昇しているのに対し、第2次安倍政権下の7年半ではなんと累計14%も減少している。この不都合な真実を、野党はしばしば指摘するが、安倍政権は聞く気が無い。本当は、経済財政白書ではこうした重要な論争に決着をつけるべきだが、白書には実質賃金には全く触れていない。都合の悪いことは触れず、無かったことにするいつもの癖がここにも出ている。
実質賃金

(3)白書で本当に大事なのは、第1章「日本経済の現状と課題」

今回の経済財政白書について最も不満なのは、定点観測ともいえる「日本経済の現状」についての真摯な分析・確認がなされていないことである。この点は、今回のというよりも、『経済白書』が『経済財政白書』に衣替えした2001年以来の問題かもしれない。第2章、3章のトピックスの分析に重点が置かれ、第1章の定点観測が軽視されている感がぬぐえない。確かに研究論文の一つとしては興味深いが、それは白書の役割であろうか。白書の本来の役割は、毎年1回(あるいは2回)、各府省の所管分野の中心的な課題について、客観的に把握し、それを世に問い、政策課題を検討する材料を提供することではないか。昨今の白書、とくに第2次安倍政権になってからの白書は、安倍政権が進めようとしている政策の意義や基本方針などを喧伝する「政府のパンフレット」の性格を強くしている。そうした政権の政策の喧伝は、首相官邸のサイトや政党のパンフレット・政権公約で十分であり、分析に長けた一級の官僚が1年間かけて白書に記す類のものではないであろう。

例えば、日本経済に関して今、経済財政白書が論ずべき最重要視点は、景気の局面への認識であろう。現在の日本経済は本当に景気拡大(拡張)局面にあるのか、本当に2019年1月に戦後最長(74カ月)の景気拡大を実現したのか、2018年11月から2019年3月の景気動向指数を含む経済諸指標の低迷をどう解釈するのか、などに精緻な分析を加えて見解を述べるべきである。景気動向指数の推移をみると(図2)、一致指数は2018年11月以降一進一退であり、先行指数は2018年6月から長期の下降局面にある。こうした中で、「戦後最長の景気拡大が続いている」と言い張るのはかなり違和感があるが、そうした議論を経済財政白書で論じないのは、どういうことなのであろう。
 景気動向指数
 また、日本経済が直面している「リスク」についての記述が少ないのも不満である。ビジネスにおいて、経営幹部は常に多方面のリスクに目を配りリスク管理にいそしまねばならない。前向きの威勢の良いビジョンしか語らない経営トップは、実に危うい。経済政策、経済運営も同様である。政策に携わる者は、常に幅広いリスクに敏感で、諸リスクに憶病でなければいけない。リスクを真摯に見つめ、分析して、少しでも早くリスクへの対応策を探らねばならない。そうしたリスクの所在とそれへの対応策を記すことが、経済財政白書の大きな目的ではないか。

筆者が見る限り、眼下の日本経済は多様な多くのリスクにさらされている。

第1に、世界的に経済成長が減速してきている。貿易戦争の渦中の米国、中国はもちろん、欧州や他の新興国の経済も成長鈍化が顕著であり、IMFなど国際機関の経済成長見通しも相次いで下方修正されている。とくに、過去10年以上世界経済を牽引してきた中国が、過剰債務などの国内問題によりかなり深刻な経済減速に見舞われている。Hard Brexitまっしぐらの英国の混乱も、日本企業の欧州での活動にかなりの悪影響を与えそうである。

第2は、国内の金融システムの不安である。1999年以降のゼロ金利政策、さらには2016年来のマイナス金利政策の下で、邦銀の国内利鞘は縮小を続け、地域金融機関の収益基盤がかなり脆弱となっている。メガバンクは海外投融資で収益を確保しているが、先述の通り新興国経済に不安があるなか、新興国の金融危機、通貨危機が生じればこれも大きな打撃となりうる。

第3は、個人消費の増勢が弱いことである。その背景には、先述の実質賃金の低迷があるが、それに加えて今10月には消費税率の引き上げもある。筆者は消費税増税には賛成だが、国内の経済基盤がダメージを受ける可能性は相当高い。消費税率引き上げについては、様々な激変緩和措置が用意されているが、あまりに複雑であり、これが小企業の負担となることも心配である。

第4は、政府債務の拡大に対する問題意識の欠如である。安倍政権は、元来財政再建に無頓着だが、この7年間に政府債務は着実に拡大し、財政再建の第一歩であるプライマリーバランスの均衡目標など、どこかに消え去ってしまった。6月23日のブログで触れたMMT(現代貨幣理論)を、日本政府も信じ、実践しているとすら思える。せっかく『経済財政白書』に衣替えしたのに、「財政問題」を論じないというのは、どうした料簡なのであろう。

このような様々なリスクについて、経済財政白書はほとんど論じていない。米中貿易戦争は明らかに世界貿易の縮小を招いており、世界のサプライチェーンに多大なショックを与えているが、白書では第3章「グローバル化が進展する中での日本経済の課題」とののんびりした記述で済まそうとしている。経済財政白書は、初心に帰り、謙虚に日本経済・財政の現状分析を行い、我々が留意すべきリスクを淡々と語ることを忘れてはいけない。(了)