コロナ禍で盛り上がりに欠けるクリスマス・イブの1224日、ヨーロッパからうれしい知らせが届いた。英国(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland;連合王国)とEU(欧州連合)が、難航していた自由貿易協定(FTA)交渉を終え合意に達したとの報である。これはこれでめでたいのだが、英国がEUから離脱するBrexitが年始から開始され、これは双方に大きなダメージを与える。

(1) ロンドン子は最後にバスに乗る

ずいぶん周囲をやきもきさせたが、移行期間終了の2020年末のちょうど1週間前に、フォンデアライエン欧州委員長と英ジョンソン首相との間でようやくFTAの合意にこぎつけた。年内に英国議会とEU閣僚理事会での承認を得て、2021年初にFTAが(暫定)発効することになる。周辺では、「年内のFTA成立は無理で、英国―EU間の関税が復活する」との予測が多かったが、何とか間に合った。

昔から「ロンドン子は最後にバスに乗る」と言われる。ロンドンの二階建てバスは、昔は乗り口が開放されており乗り降りが自由だったので、バスに慣れているロンドン市民は、交通状況やバスの乗降客数を見て、一番有利なバスにバスが走り出してからチョコンと乗り込む、という訳である。20世紀初頭まで覇権国の地位にあった英国は、国際交渉においてその発言力の高さを背景に、最後まで妥協せず我を通し、有利な合意を取り付ける。そんな傲慢な狡猾な姿勢は、まさに「最後にバスに乗るロンドン子」と重なる。今回のジョンソン英首相のぎりぎりまで妥協せず、最後の段階でクリスマス直前に妥協するやり方は、ジョンソン首相が初めから仕組んだものではないかとさえ勘繰りたくなる。やきもきした方が馬鹿だったという訳である。

とにもかくにも、FTAはまに合った。これで2021年初に英国がEUを離脱し、市場統合の恩恵を失っても、EUとのモノの輸出入について、「関税」は発生しないことになる。これによりドーバー海峡のユーロトンネル前の長いトラックの行列も短くなり、英国のスーパーマーケットの棚に野菜・果物も戻るであろう。それだけでなく、英国-EU間の関税復活によるサプライチェーンにおけるコスト増を嫌気して、英国での製造を抑制したり、英国からの脱出を企図したりしていた欧州外企業も、英国での製造を継続するかもしれない。とくに、20192月にEUと、そして202010月には英国とFTAを結んで欧州とのゼロ関税ルートを拡充している日本にとって、英国・EU間のゼロ関税が確保される意義は大きい、

もちろん今般合意に至ったのは自由貿易協定であり、これは関税がゼロであり続けるということが決まっただけのことである。EUとの間でこれまでなかった税関手続きが復活することは、煩雑である。しかし、英国の港や空港では元々「EU外」からの輸出入品については税関手続きをしているので、それにEUとの輸出入品が加わるだけである。北アイルランドとアイルランド共和国との陸続きの国境での税関手続きをどうするか、原産地証明の労が加わる、そもそも原産地が制約される、といった厄介な問題があるが、それでも当初懸念されたFTA無しでのHard Brexitという最悪の事態よりははるかに良い。英EUFTAは、少なくとも英国にとっては大きなクリスマス・プレゼントであった。

(2) 自由貿易協定と関税同盟、市場統合は次元が違う

しかし、2021年のBrexit後の英国は、もはやEUではない。FTA締結により「英国も、通商経済面ではBrexit前後で変わらない」と捉える声があるが、これは全くEU統合の歴史を知らない見方である。経済統合には様々な段階がある。有名なバラッサBéla Alexander Balassa5段階論では、①自由貿易地域、②関税同盟、③共同市場、④経済同盟、⑤完全経済統合、の順に統合度は高くなる。

英・EUFTAは、この5段階の①の段階であり、TPPRCEP等の自由貿易圏はゼロ関税の例外品目があるため、①にも至っていない。これに対し、EUの前身のEC(欧州共同体)は、1968年に②関税同盟を実現し、19931月には市場統合(Single Market)を完成させて③共同市場の段階をクリアし④経済同盟の段階に至った。さらに、1993年にはマーストリヒト条約が発効してEU(欧州連合)に進化し、1999年には単一通貨ユーロを導入して経済通貨同盟(いわゆる通貨統合)まで実現した。通貨統合にはEU加盟27カ国中8カ国が参加していない事、EUの共通予算はあるがその規模が小さいこと、租税や財政政策の統合がなされていない事などから⑤の完全経済統合は完成されていないものの、EUは④と⑤の中間に位置するといえよう。統合度でEUに次ぐASEAN(東南アジア諸国連合)といえども、関税同盟(域外に対する共通通商政策・共通関税表の保有)を一部で実現しているだけであり、②の段階の半ばに留まる。

英国はEUFTAは締結しても、EU40年以上にわたって築いてきた統合の②③④の恩恵は失う訳である。そのダメージが小さい訳はない。トランプ大統領といい、英国の保守層といい、デヴィッド・リカードDavid Ricardoなどの自由主義経済学者が200年以上にわたって訴えてきた自由貿易の重要性を軽視し過ぎである。その付けは大きい。

まず、英国はEUの関税同盟を失うことがつらい。英国は慌ててEU域外諸国に秋波を送り、日本とはFTAを取り付けたが、最重要同盟国の米国とのFTAには難航している様子である。英国がEUと同程度の低い域外関税を実現するには、相当な時間が必要であろう。また域外企業から見ると、英国とEUの関税表が異なると、不確実性を嫌い英国との貿易よりEU との貿易を優先させる可能性もある。極端な話、EUとの関税同盟を持つトルコとの貿易を、英国よりも優先する欧州外の国もあろう。

EUの単一市場(市場統合分野)から外れるダメージはさらに大きいであろう。とくにEU内のどこかで免許を持てばEU内全域で通用するという「単一パスポート」が英国内では通用しなくなるダメージは大きい。欧州外の金融機関などは、世界最高の金融センターであるロンドンに拠点を置いてEUパスポートを取得し、それをもって大陸欧州諸国での活動を自由に行っていたところが多い。Brexitによりそれが叶わなくなり、それら金融機関は慌てて大陸のフランクフルトやルクセンブルグ、アムステルダム等に拠点を設けて共通パスポートを取り直している。今のところ、それが既存の欧州外企業の英国大脱出をもたらしているわけでもないが、2021年以降の英国への新規進出にはブレーキがかかるであろう。

(3) 英国は没落の道をまっしぐら

19世紀半ばごろから20世紀初頭にかけて、英国は産業革命と狡猾な植民地経営により繁栄を謳歌し、これはPax Britanica(パクス・ブリタニカ、英国による平和)と呼ばれた。しかし、第1次世界大戦の戦禍をへて、英国は覇権国の地位を米国に譲った。現在は、米国の覇権が衰え、中国が覇権主義を露骨に示し、EUがその中で地道に地歩を固めて米中の間隙を突こうとしている多極化の時代である。そうした緊迫した世界の構図の中で、一人英国は、移民の流入やEUへの財政拠出といった目の前の些細なストレスに耐えられず、EUという貴重な土俵を自ら捨てたのである。なんとも愚かな判断である。

2016年のBrexitの国民投票を、「否決されるに違いない」と安易に捉え実施したキャメロン元首相の見誤りは大きな過ちであった。そして、120年前の偉大なBritainの幻想に憑りつかれ1973年のEU加盟以来Brexitを訴え続けてきた英国の右派の不見識は、実に残酷な結果を生み出した。それを先導してきたジョンソン首相の罪はさらに大きい。

英国-EU間のFTAはめでたいが、202111日のBrexitは英国の更なる凋落の始まりである。EUに残留したかったスコットランドの独立も、現実味を帯びてくるかもしれない。英国に5年間暮らし、通貨統合に向けての壮大な統合の夢を見てきた筆者からすると、なんとも寂しい展望である。(了)