(1) G7サミットでの経済の存在感の軽さ
6月11~13日に開催されたG7サミット(主要7カ国首脳会議)の主要議題は、「対中国」「中国包囲網」であった。もちろんワクチンの世界への供与などCovid-19への対応や、気候変動問題への対応の確認、オリンピック開催の決意表明などもなされたが、米欧日7か国が安全保障、人権保護、台湾への圧力の阻止、途上国への影響力拡大阻止など、様々な角度から中国の封じ込めに協調姿勢を固めたことが目立つ。中国の覇権主義は明らかに行き過ぎている為、それを阻止する意義は高いが、他方で中国を含むRCEPの発効を目の前にして、果たして日本が米中の狭間に立たされ身動き取れなくなることは無いのか、いささか心配である。
さて、経済についてはどうか。サミットの起源である1975年の仏ランブイエG5サミットでは、オイルショックに対する世界経済の対応が最重要議題であった。その後、国際収支不均衡、途上国債務問題、バブル崩壊や金融危機への対処、途上国の貧困問題、地球環境問題、など毎年のテーマは変化したが、サミットの前には常に経済問題が深刻な課題として横たわっていた。
今回のG7サミットでも経済・経済政策についての言及はある。まず、7か国が休業や時短を強いられる企業、労働者への収入補填などに12兆ドル超の経済支援を講じたことを高らかに謳い、財政拡張、積極的財政政策を正当化した。ここには、デジタル強化や気候変動対策への投資、さらには世界的に不足するレアメタルなどの鉱物資源や半導体のサプライチェーン確保への取組みに関する投資も含まれる。他方で、既にG7財務省会合で歴史的な合意を得た、法人税の最低税率15%の設置も追認し、主要国が財政再建の為に法人税増税をしやすくする道筋をつけた。(法人税率引き上げ論に関する詳細とその背景については、本コラム2021年4月21日付「法人税率引き上げの世界潮流/背景に健全財政回帰とグローバル・チキンレースの終焉」ご参照。) 主要国の政策潮流は、明らかに「大きな政府」に向かっている。
しかし、例年のサミットで見られた、世界経済に関する現状とリスクの認識と変革課題についての明確な記述はない。2020年には、世界中がコロナ禍に翻弄され、G7
諸国を含むほとんどの国が大きなマイナス成長を記録した。2021年に入って米国や中国で経済回復がみられるが、日本や欧州の大半の国の経済は停滞している。このように経済回復のばらつきは、新型コロナ感染症の広がりの深刻さやワクチン接種の進行度、あるいは政府の対応の厚さなどでは必ずしも説明がつかず、何とも脈略が無い。このような状況下で、世界経済の現状とリスクを見極めるのは極めて困難である。
筆者は、現状の世界経済の最大のリスクは、積極財政によって積みあがった主要国の政府債務だと考えるが、G7は前述のとおり各国の拡張財政政策を支持しているので、政府債務を取沙汰することはできない。もう一つ筆者が気になる世界経済のリスクに、インフレ懸念と長期金利の上昇があるのだが、これも政府債務に起因している可能性が高いので指摘することができない。
今回のG7サミットの経済面における声明は、筆者には「忍び寄る危機をあえて見ないようにする」という大本営発表を想起させるものである。それだけコロナ禍への対応に汲汲としているということなのだろう。
(2) 米国・欧州でインフレ進行
久しぶりにインフレーション(inflation;以下インフレ、一定期間以上市場の価格全般が上昇する状況)の話をする。日本では、1997年から20年以上デフレーション(deflation以下デフレ)が続き、「デフレ脱却」ばかりが求められ、インフレ懸念などと囁けば、嘘つきの「オオカミ少年」の誹りを受けかねなかった。欧米主要国も、2008年のリーマン危機後はデフレではないものの物価は総じて安定しており、ここ10年以上、インフレが話題に上ることは少なかった。
しかし、少なくとも米国では、2021年に入り物価は顕著に上昇し始めた。2021年5月の米国の消費者物価上昇率は前年同月比5.0%と、2008年8月以来の高さとなった。変動が激しい食品・エネルギーを除いたコアCPIも5月には前年同月比3.8%と、1992年6月以来の高い伸びを付けた。中古車、ホテル代などは2桁の上昇率をつけており、レンタカー料金など、一部のサービス価格は3桁の上昇率をつけるものもある。
一部の工業品の供給不足、原油価格の上昇、コロナ禍による労働供給の減少に伴う人手不足、金融緩和など様々な要因が影響していると言われている。
欧州諸国の物価も上昇ペースが速まってきた。ユーロ圏の消費者物価上昇率(前年同月比)は、2020年後半にはマイナス0.3%程度に落ち込んでいたが、2021年1月には0.9%に跳ね上がり、4月には1.6%となった。ドイツの物価上昇率は4月には2.0%をつけている。欧州も米国ほどでは無いが、インフレの足音が気になるようになってきた。
方や、日本では物価上昇は不鮮明である。消費者物価上昇率(前年同月比)は、2017~19年度にはプラス0.5~0.8%となり、ようやく「デフレ脱却」を果たしたかに見えたが、2020年8月頃から再びマイナス圏に落ち込み、足元でも▲0.1~▲0.4%で推移している。しかし、企業の販売価格である国内企業物価指数の上昇率(前年同月比)は、2020年にはマイナスであったが、本年3月にプラスに転じ、4月には3.6%をつけた。対面サービスを中心に消費者向けサービス需要は低迷しているが、一部の工業品の需要は旺盛であり、原料価格の上昇と相まって企業物価は相当程度上昇の芽が出てきているようだ。こういう状況となれば、インフレの話をしても「オオカミ少年」の誹りは受けないであろう。
(3) インフレをもたらす要因(伝統的理論)
そもそも、インフレはなぜ起こるのか。マクロ経済学の教科書には物価変動要因として色々な説が書かれているが、現実の物価変動をこれらで説明することは容易でない。物価は「経済の体温」と言われる。マクロ経済政策、とくに金融政策を考える上で物価は極めて大事だが、その変動要因は複合的で、どれか一つに依拠することは難しい。これは、あらゆる病気の指標として重要な体温も、その上昇の原因は様々であるのと同じである。(今般のコロナ禍で毎日体温を測ることになり、体温がウイルス感染以外の様々な要因で変化することを、多くの人が知ることになったであろう。)
マクロ経済学に書かれているインフレの要因は、大きく以下の3つに分類できる。
①ディマンド=プル=インフレーション(demand
pull inflation、以下「需要インフレ」)
マクロ経済において、総需要(AD)の増加(AD曲線の右上方シフト:図のAD2⇒AD1)は、均衡物価水準の上昇をもたらす(P2⇒P1)。この時、超過需要(すなわち景気過熱)が発生し、こうした状況では人手不足・設備フル稼働・品不足といった現象がみられる。この時、短期的には実質GDP(産出量)は増加する。
また、総供給(AS)が減少(AS曲線の左上方シフト;図のAS2⇒AS1)することでも、超過需要が発生し物価水準は上昇する(P2⇒P1)。戦争や自然災害により産業が毀損し、供給が不足して需要が賄えない時に生じることが多い。第1次世界大戦後のドイツ、オーストリア、中欧諸国、第2次世界大戦後の日本などで発生したハイパー=インフレーション(hyper inflation、月数十%以上もの物価上昇)の主因は、戦争で供給力が失われたことによる超過需要であった。需要インフレは、実物需給に起因するインフレであり、総需要増加、総供給減少のいずれかで発生する。(ちなみに東日本大震災の際には、一部産品の価格が供給力毀損により上昇したが、超過需要が長続きしなかったため、日本全体ではインフレは生じなかった。)総供給減少によるインフレでは、実質GDP(産出量)は減少する。
②コスト=プッシュ=インフレーション(cost
push inflation、以下「コストインフレ」)
原材料価格や賃金などの生産コストの上昇により総供給(AS)が減少(AS曲線の左上方シフト)することによる物価上昇である。1970年代に世界を苦しめた石油危機(オイルショック)が典型例である。また、1960年代以降、欧米で見られた強力な労働組合による過大な賃金上昇による構造的なインフレも、コストインフレである。また、為替レート急落による為替インフレや、貿易相手国のインフレの波及による輸入インフレも、コストインフレの一種である。
先述の、戦争や自然災害により総供給が減少する場合のインフレをコストインフレに含める向きもあるが、筆者はこれは需要(超過)インフレに含めるべきと考える。
③マネー・インフレ(信用インフレーション)
これは上述の2つの実物経済に依拠するインフレではなく、金融面からのアプローチである。その根拠は、アーヴィング・フィッシャーの交換方程式に依拠する。交換方程式とは、MV=PT、あるいはMV=PYという安定的な関係がみられ(M:マネーストック(マネーサプライ)、V:流通速度、P:物価、T:取引量≒Y:実質GDP)、Vを定数とするとMはPT(≒PY)、すなわち名目取引額・名目GDPと比例するとする考え方である、つまりMが増加すると、PあるいはYが増加するということである。そして、新古典派経済学では、実質GDP(生産量)は、労働・資本・土地・自然資源・技術進歩といった生産要素によって決まり、M(貨幣)の影響は受けないという貨幣の中立性に依拠する為、Mの増加はもっぱらP(物価水準)の増加をもたらす、と考える。ここから、「インフレは貨幣的現象である」として物価安定の為には、マネーストックの伸びを一定に保たねばならないとするミルトン・フリードマンらのマネタリストの考えが産まれる。
このマネー・インフレは、上述の需要インフレ・コストインフレといった実物需給・供給コストに依拠するインフレ要因とは全く異なるアプローチをとる為、上述の2つのインフレと同居もするし、対立もする。この為、需要インフレ・コストインフレとマネー・インフレの何れが正しいかという議論は無意味であり、現実にはそれぞれのインフレ要因が交錯して物価に作用することになる。
マネー・インフレは、中央銀行のマネー供給(金融緩和)増、あるいは市中銀行の融資拡大(信用乗数の上昇)によるマネーストックの過大な増加によって引き起こされる。日本銀行は、2002年から量的金融緩和を始め、2013年以降は黒田東彦総裁の異次元金融緩和の下で、巨額のマネタリーベースを供給し、デフレ脱却を図ってきた。その背景には、上述の貨幣の交換方程式の考え方がある。しかし、マネタリーベースは増えたが、残念ながら(市中銀行の融資が低調なため信用乗数が低下し)マネーストックは思うように増えず、実物経済に影響を与えることができなかった。(日本におけるマネーストック、マネタリーベース、貸出と名目GDPの関係については、拙著『経済再興のための金融システムの構築』金融財政事情研究会,pp.8-11ご参照)
なお、マネー供給が過大であっても、名目GDPがそれほど拡大しない際には、行き所の無いマネーが不動産や株式などの資産に向かい、資産インフレが上昇し、これがしばしばバブル経済を生む。こうした経済では、物価上昇率が低い為、名目金利は自然利子率を下回る低位に抑えられている。
政府が国債を大量発行し、政府債務が急増する時、中央銀行は国債を間接的に購入し(中銀の国債の直接購入は一般的に禁止されている)、結果としてマネタリーベース、さらにマネーストックが増加する(財政ファイナンス、マネタイゼーション)。その結果インフレが生じる時、これは「財政インフレ」と呼ばれるが、上述のとおりこれはマネー・インフレの一種である。先述の戦後にインフレが生じやすいのは、軍備の為に大量に発行された国債が中央銀行によって保有され、マネーが過剰に供給されたことによるという側面もある。
(4) 欧米のインフレは何型? そして日本にもインフレがくる?
さて、欧米で頭をもたげてきたインフレは、果たして何型であろうか。
米国での物価上昇の直接の原因は、6兆ドルに上る政府支出とワクチン接種による急速な消費センチメント回復による実物需給の逼迫であるから、まず①の需要インフレにあたるものと言えよう。そこに、賃金上昇とエネルギー価格上昇という②コストインフレの要素が加わったものと考える。しかし、(これは立証できないが)、2020年初に実施した急激な金融緩和によるマネー増加の影響が一年遅れで③マネー・インフレが現れたとも言える。要するに複合型である。
今後については、米国のインフレはなかなか抑制されそうにない。巨額の政府支出は8年間にわたって計上されており、共和党政権が政権を奪取するまで縮小しないであろう。 コロナ禍で抑制されたペント・アップ需要も巨大である。また、FRB(連邦準備理事会)は、金利の引き上げや量的金融緩和のテーパリングを否定しており、しばらくは実質金利マイナスの状況を維持しようとしている。
欧州のインフレの原因はより複雑である。米国と同様、政府支出の増加と、消費のペント・アップ需要と、超金融緩和は物価上昇要因となっているであろう。それに加え、欧州の場合は、域内の物流や人流の制限による供給面の制約が少なからず物価上昇要因になっている可能性がある。
今後の欧州については、上述の物流・人流の制限による供給制約が一気に無くなる。そして政府支出は米国ほど大きくないので、物価上昇率も米国ほどは高まらないであろう。
さて、日本はどうか。日本の総需要は、米国、中国、欧州に比べて弱い。政府支出も米国よりはるかに小さい。一見大胆な金融緩和をしているように見えるが、前述のとおり銀行融資が低調な為、マネーストックの伸びは小さい。製造業の生産は総じて好調であり、供給制約もない。これが日本では、欧米とは異なり物価が上がってこない理由である。
日本は、今後3-5年の中期的には、この状況は変わらないであろう。つまり、日本のみデフレ傾向が残ると考える。しかし、10年程度のより長いスパンでは、インフレ懸念は欧米より大きいと思う。その心は、政府債務の大きさである。政府債務の名目GDP比は250%に登り、これは欧米諸国の5-6倍である。現在は国債は国内で消化されているが、経常収支黒字の縮小に伴い海外の国債保有が増えてくるであろう。そうすると、一度日本経済(国債)への信認が崩れると、一挙に国債が売られ、資金が実物需要に向かいインフレが急伸する可能性がある。その時には、長期金利は跳ね上がり、円安が進むことになる。(了)
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